美濃焼(岐阜県の美濃地方の東側の東濃地区の西部で作られている焼き物)といえば、志野・織部が代表的な焼き物です。
白い国産の器を作ろうとして試行錯誤の中できたのが志野といわれています。
また織部は 緑色(銅のさびたろくしょうと同じ酸化銅)の器に、変わった形や奇抜なデザインの絵で斬新さをアピールした器です。
ひょうげたもの(かわったもの、めあたらしいもの)といわれ 当時の最先端のおしゃれであり、そして武士のたしなみの茶の湯と結びつくことで広まっていった器です。
その志野と織部が最初に焼かれたころについての 弊社社員の研究論文の一部です。
① 唐物から和物へ
古い宋・元時代の唐物、今風に言えば骨董品の代わりに 当時生きていた日本の職人に茶の湯道具を作らせることで、手ごろな値段で買うことが出来るようになり、茶の湯の席で堂々と日本製の茶の湯道具を扱うことが流行となっていった。
この風潮の中、これまで一貫して中国の焼き物の模倣をしてきた瀬戸焼は、新しい流行に歩調を合わせようとすることも無く衰退していくことになるのである。
そして、この流行の波に乗り大きな発展を遂げた焼き物があった。それが、美濃焼である。
現在美濃焼の大きな顔として知られる志野・織部はこの流行に照準を合わせて生まれてくるのである。
まず、志野であるが、志野は白釉が開発されたことにより生まれた焼き物である。
長石をほとんど単味で使った釉薬であり、恐らく日本で初めて開発されたのであるという。
これまでの美濃焼は瀬戸焼で開発された釉薬を使って施釉陶器を作っていたがここで初めて独自に開発した釉薬を用いた焼き物を作ることに成功したのである。
このことは、美濃焼が瀬戸焼から技術的に独立したことを示す大きな事柄である。
しかし、瀬戸から独立したかのように見える美濃の焼き物は未だに世間では瀬戸焼の一部として見られ、志野陶もセト白茶碗と称されてしまう。
そして、次に織部である。
織部焼は古田織部の指導の下に作られた焼き物といわれ、茶器が多い。
古田織部は千利休の弟子であり、千利休の死後、茶の湯の世界におけるリーダー的存在となった人物である。
矢部良明著『日本陶磁の一万二千年』では日本の茶の湯を2つの形に分けている。1つは室町時代の正格を守り続けようとするスタイルと、茶の湯を古典美に拘ることなく精一杯楽しもうとするスタイルである。
そして、同著書の中では前者をコンセプトの茶の湯、後者をファッションの茶の湯と称している。
古田織部が興味を抱いたのはファッションの茶の湯であり、その茶の湯に合う個性美を追求した焼き物を高く評価していた。
新しい美濃焼は正にファッションの茶の湯に照準を当てて作られたものだったのである。
当然、美濃焼は古田織部に高い評価をされることになる。
美濃焼の一部に織部陶と呼ばれる物があるのは、それが単に古田織部が好んでいたためであり、古田織部の指導の下に作られたからという訳ではないともいわれる。
しかし、この茶の湯の流行で美濃で新しい焼き物が生まれたことは確かである。
こうして、美濃焼は茶の湯の流行という追い風を受けながら、天正年間後半の1580年代から、慶長年間の1610年代の、わずか30年程という期間の間で、目覚しい技術開発により、急激な発展をとげるのである。
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